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熊本地方裁判所 昭和44年(わ)58号 判決 1969年10月28日

被告人 川上忠広

昭二三・二・一生 無職

主文

被告人を懲役一二年に処する。

未決勾留日数中一五〇日を右刑に算入する。

理由

(犯罪事実)

被告人は昭和四二年四月頃から熊本県荒尾市野原一、〇〇一番地所在、赤田診療所に自動車運転手兼雑役夫として稼働していたものであるが、昭和四三年六月頃恋仲の同診療所看護婦明石洋子と結婚の約束をするに至り、同診療所所長立山虎男夫婦に対し明石と結婚するので自己の給料を二五、〇〇〇円に上げてくれるよう再三申し入れ、漸く同年八月分から昇給させてやる旨口約束を得て相当額の昇給を期待していたところ、同年九月五日受領した八月分の給料が予期に反して前月分より手取金が僅か一、〇〇〇円増加したに過ぎなかつたことにいたく憤慨し、昇給の約束を履行しなかつたのは立山虎男が被告人ら若い者の気持を全く理解してくれないためと一途に思い込み、同人に対するうつ憤を晴らすため立山夫婦ら及び神経痛、リユーマチ等の疾患で入院中の患者三〇数名が住居に使用している同診療所(木造瓦葺二階建、建坪一、五四四平方米)に放火することを決意し、同日午後八時二〇分頃近くの岡本石油店からガソリン一八リツトル入り二缶を取り寄せ、一階東側所長室前の廊下にガソリン二缶を撒いて所携のマツチをもつて点火するやたちまち火は天井に燃え上り、同診療所をほぼ全焼(被害額四、〇〇〇万円相当)させてこれを焼燬し、その際逃げ遅れた平山ミス(当七九年)を間もなく同診療所二階一一号室において焼死せしめ、今村サダヨ(当七〇年)も顔面、首、前胸、両上肢及び両手足第三度火傷により同年同月七日午前五時五〇分頃福岡県大牟田市不知火町三丁目四番地大牟田市立病院において死亡するに至らせた外別紙被害者一覧表(略)記載のとおり入院患者九名に対しそれぞれ傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)(略)

(検察官の主張に対する判断)

検察官は本件放火当時前記診療所二階の各病室には神経痛リユーマチ等にかかつて手足の不自由な患者三二名が入院しており、就中平山ミス、今村サダヨの両名は高齢で歩行が不自由であつたうえ平山は視力がほとんどなく、同診療所にガソリンを撒いて放火すれば死傷者の出ることは十分予見されたにもかかわらず、被告人は放火に先立つて各病室を廻つて単に「今夜は月がきれいだから外に出よう。」等と言つたのみで放火を予告し或いは同人らを屋外に連れ出す等の措置を執らないで同診療所に放火し、その必然の結果として平山、今村の両名を死に至らせた外宗村シヲルら九名に傷害を負わせたものであるから、本件現住建造物放火罪とは別個に前者については殺人罪、後者については傷害罪がそれぞれ成立し、これらと本件現住建造物放火罪とは観念的競合の関係にある旨主張するのでこれについて判断する。

検察官主張のように被告人は本件入院患者のいずれもが診療所二階に、就中平山ミス、今村サダヨは所長室上方の一一号室に居住し両名とも歩行が不自由であるうえ平山は視力がほとんどないといつた身体の障害を熟知していたこと、右病室階下所長室前の廊下にガソリンを撒いて之れに点火すれば辺りは瞬時にして火の海となつて容易に二階病室に燃え移り右患者が逃げ場を失い死傷の結果を招くことが予見できたこと等に着目すると、被告人に未必的に殺人及び傷害についての故意があつたようにみえないでもない。

しかしながら、前掲各証拠によると被告人は単に昇給のことで立山虎男に対して憤慨し、そのうつ憤を晴らすために同診療所に放火するに至つたものであること前記認定のとおりであつて、入院患者らに対しては何らの怨恨はなく、かえつて被告人は度々入院患者らから酒を与えられたりして好感をもたれ、被告人も平山らをマツサージしてやつたりして親しくしていたことが認められるのであるから、このような間柄の被告人に果して平山、今村をはじめとして入院患者らの死傷の結果を予見し之れを認容したものかどうか甚だ疑わしいといわなければならない。

さらに、放火の前後の状況をみると、被告人は放火に先立つて二階各病室を廻り寝ている患者は起したうえ「今夜は月のきれいぞ。凉しかけん外さん出てみらんな。とても星がきれいだから外に出て凉もう。」等と言つていること、同診療所には東西両側にそれぞれ階段が設けられて二階病室から階下に通じていること、被告人がガソリンを撒いた箇所は階下東側階段横の所長室前の廊下であつて、西側階段から避難できる余地が残つていたこと、被告人はガソリンに点火すると同時に顔面、両上下肢及び背部に第二度熱傷(医師小林寛作成の被告人に対する診断書)を負つたが、それにも怯まず診療所二階へ駆け上つて患者らの救助に努めていたこと等が認められる。このことは被告人が司法警察員(昭和四三年一一月二二日付第三項及び第四項)に対し「二階の各入院室には目や手足の不自由な老人が多いので逃げ遅れて焼死したり怪我したりしてはいけないと思つて火をつける前に二階にあがり各室を廻つて入院患者に今夜は月がよいから外に出てみらんな、星がきれいだから外に出て凉もうと言つて患者の人達に外に出てもらおうとつとめました。(中略)階下に降りた私は玄関前にとどけられたガソリン缶を見てカーツとなり(中略)ガソリンにマツチをすつて火をつけましたが、私の身体にもガソリンがついていたためにボスという大きな音と共に一度に火がつきましたのでその熱さにたまらず近くの浴場に飛込んで身体についている火を消しました。その頃には火は廊下の天井にあがつていましたし二階の入院患者が危いと思いましたが東側階段からはあがれないと思いましたので西側階段にまわり二階に駈けあがりました。(中略)内村さんと肩を組んで下に連れだしてから又二階にかけあがり目や手足の不自由な平山以外は大丈夫だと思つていたので、平山さんがいる一一号室に行こうとしましたが八号室の前まで行つたとき火の粉がボンボン飛んできて一一号室の戸をあけようにもあけることができず火熱のため一一号室には入ることができませんでしたのであきらめて引返しました」旨の供述を十分に裏付けているといわねばならない。

そうだとすると、被告人としては入院患者の中から死傷者のでるのをおそれ放火する前に入院患者らを屋外へ出そうと試みたが、同人らが被告人の意図に気付かずこれに応じなかつたため、遂に同診療所に放火しても平山以外は自力で避難することができるから、平山だけを救助すればよいという判断のもとに放火したところ、意外にも火の廻りが早かつたため今村サダヨ(同人は判示のとおり後日に至つて死亡)をはじめ多数の怪我人をだしたばかりでなく、平山を救助することができず同人をしてその場において間もなく焼死させたものと認められ、被告人のこのような判断が極めて軽率なものであることの非難は免れ得ないとしても被告人が平山、今村をはじめ多数の患者の死傷について予見し之れを認容していたものとは考えられず、同人らに対する殺人罪或いは傷害罪の成立を認めることはできない。

ところで、被告人に平山、今村の死亡及び宗村シヲルら九名の傷害の結果を予見しなかつた重大な過失があつたこと明らかであるが、既に現住建造物放火罪として処罰する以上は右重過失致死傷の如きは当然右放火罪において予想されている危険の範囲内の結果であるとして現住建造物放火罪に吸収され別罪を構成せず、人の死傷については量刑上考慮すれば足りるものと解する。

よつて、殺人罪及び傷害罪の訴因については犯罪は成立しないが、判示現住建造物放火罪と観念的競合の関係にあるものとして起訴されたものであるから、主文において特に無罪の言渡をしない。

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、被告人は本件犯行当時一時的な精神錯乱を起し、心神喪失ないし心神耗弱の状態にあつた旨主張するので、この点について判断する。

なるほど、被告人は昇給のことで立山虎男に対しいたく憤慨し、酒の勢も加わつて多少異常な行動をとつたことは認められるが、被告人は本件犯行に使用したガソリンを、日頃買いつけの岡本石油店には二七、〇〇〇円位の未払代金があり、同店より買いづらいと考え、明石洋子に頼み電話帳で他の店を探させたが適当な店が見付からなかつたので岡本石油店より購入していること、前述のとおり被告人が本件犯行の前後を通じて入院患者達の身の安全について意を配つていたこと等から考察すると、被告人は犯行当時事理弁別の能力が著しく減退する程精神錯乱を起していたとは認められないので弁護人の主張は採用できない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法第一〇八条に該当するが、ここで量刑につき検討するに、前述のとおり被告人は本件犯行の結果、自らも可成り重い火傷を負つたが、その予後の見透しは医師北川敏夫作成の診断書によると、右五指共に機能障害をきたし、左足関節内側に傷痕のため歩行が困難であり、広汎な皮膚移植を施すと歩行は幾分良くなるが、その手術は可成りの困難を伴い而も成功の確実性のないことが認められるので、被告人は不具者として今後長い一生を送らなければならず、自業自得とはいえその報いがあまりに大きいこと、被告人が本件犯行当時成人に達したばかりで思慮分別の浅かつたこと、その他諸般の事情を考慮し、同条所定刑中有期懲役刑を選択し、その刑期範囲内において被告人を懲役一二年に処し、同法第二一条を適用して未決勾留日数中一五〇日を右刑に算入し、訴訟費用については刑事訴訟法第一八一条第一項但書により被告人に負担させないこととする。

よつて主文のとおり判決する。

(別紙略)

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